映画の価値とは

なんとなく、賞を獲るような映画というのはある程度テイストが決まっているような気はしないか。

 

困難に陥りながらも最後は明るいエンドを迎える映画、一人の人間の人生を丸ごと描いた大作、恋人や友人との絆を描いたストーリー等々。

 

いずれも悲劇一辺倒でも喜劇一辺倒でもないものが多いような気がする。

 

悲劇一辺倒の中にも所謂ダンサーインザダーク(僕は悲劇一辺倒とは思わないが、一般的にはそう言われがち)のような、悲劇の中にも音楽など他の要素を入れたものは賞を獲る可能性はあるのだろうが、基本的にコメディ、というのもおバカタイプのものはほぼほぼ賞を獲っていないのではなかろうか。

 

いや、おバカタイプのコメディが賞を獲って欲しいと言っているわけではないし、むしろ獲ってもいけない気さえするのだが、中には何回でも見たくなるほどハマってしまうものもある。

 

僕は、絶対的な映画(映画に限らず)の評価などは不可能だと思っている。

 

一人一人で感じ方が違うものをこれは絶対に万人にとって素晴らしいなどと断言するのは違うと思う。

 

賞というものは審査員がいて、ある程度の客観的な判断基準はあるのかもしれないが、最終的には審査員によってつけられたポイントが最も高かったものが選ばれるだけでそれが万人にとっていいものだとは彼らも謳っていないだろう。

 

だから賞というのは何見ようかな〜って迷った時の一つの参考にでもして、自分にとってのベストな映画は自分で決める(決まる)ものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で終わりではない。

 

僕が言いたいのは、何が映画の価値を決めるかということである。

 

見終わった後すぐに面白かったなと思える映画。

 

見終わった後は特別な感情を抱かなかったけれども、何日か後、何ヶ月か後にあれっていい映画だったなと思える映画。

 

1回目はそんなに良く感じなかったけど、2回目の時はいいなと思える映画。

 

1回目すごく良く感じたけど、2回目はもういいかなと思ってしまう映画。

 

良さには色々ある。

 

色々あるのだからこれが一番だというものは本来決めることはできないのだと思うが、なんとなーくある程度普遍的な基準(無意識下に価値のある映画だと多くの人が思う基準)というものが見つかった気がするのでそれを書きたいと思っている。

 

それは、死ぬまでに自分の心の中で何時間、どれだけの感情の密度でその映画のことを考えたかということかなと思う。

 

見終わった後にすぐ良かったと思える映画は感情の密度が濃いが、もしかしたらそれ以降はそんなにその映画のことを思い出して強い感情を抱くことはないかもしれないし、逆に、見終わった後には大していいと思わなかったものでもその後事あるごとに思い返してしまう映画というものは感情の密度はともかく時間は長いだろう。

 

そうそう、ここで話が戻るが、おバカコメディ映画であってもずっとその映画のことを考えて思い出し笑いしてしまうようなものならその映画は本当に価値があると僕は考える。

 

また例えば、僕の中ではベストキッドはそこそこの映画でしかないが、ベストキッドを見てから空手を始めて空手が人生の大部分を占めるというような人は割とベストキッドのことを思い返し、更にその時代やその頃の自分を懐かしんだりはするんじゃないだろうか。

 

だとしたらその人にとってはベストキッドはきっと大きな価値を持った映画だと思う。

 

ちなみに初めての彼女と見に行った映画だからというだけで、特にストーリーも何もかもいいとは思わないにもかかわらずベストキッドに愛着を感じる人もいるかもしれないが、それでもその人にとって大きな価値を持つものであることには変わりないだろう。

 

そう考えると映画というのは決して内容だけで価値が決まるものではないような気がする。

 

最後に、ここでの価値というのはある程度普遍的と僕が勝手に思っているだけのもので、価値にも種類があるということを言っておきたい。

 

ラーメンの中にも味噌ラーメンや醤油ラーメンがあって、味噌ラーメンと醤油ラーメンのどっちがうまいかを決めることが不毛なように、ラーメンとケーキのどっちが美味しいかを決めるなんてのは不毛中の不毛だろう。

 

だからこれこそがいい映画だとか自分の中でこれがベストだとか決める必要なんてないし、厳密には決められるものではないのだと僕は思っている。

 

色々と話が飛んでしまったが、是非映画を見る時は色眼鏡をかけた状態と外した状態の両方で見てみてもらいたいなーと思っている。

NHKのドラマに抱く感覚

僕の両親は50代後半である。

 

昔は一緒にバラエティ番組を見て一緒に笑っていたが、近年はもうあまり見ていないらしい。

 

たまに実家に帰れば「○○(大抵の場合ドラマ)は見てるか?」と聞かれる。

 

僕がテレビを持っていないことは知っているのだがそんなことはおかまいなしだ。

 

そして、そのドラマというのは大抵NHKのドラマである。

 

見たいテレビ番組は特にないので実家にいる時はチャンネル権は両親に完全に委ねているので、その例の好きなドラマを少し見ることもあるのだが・・・なんというか。

 

なんと言ったらいいんだろうか。

 

なんか、登場人物のカラーがはっきりしすぎているような気がするのだ。

 

例えばお調子者キャラは最初から最後までどんな時も調子に乗っているし、しっかり者キャラはどんな時でもしっかり者だ。

 

別にこれは作品が優れているとか劣っているという話ではないので気楽に聞いて欲しいのだが、こういった人物の描き方というのは個人的には僕は好きではない。

 

うん、これは完全に好みの問題だ。

 

僕も必ずしも、所謂「お決まり展開」とかベタな描写が嫌いという訳ではないのだが、それがあまりにも多いと作品に入り込めなくなってしまう。

 

「ああ、この人物ならこういうこと言いそうだ!でもこの行動はちょっと意外だ!このセリフはどんな気持ちで言ったんだ?」って感じで登場人物の心理なんかも考えながら楽しむのが好きだ。

 

だが、僕が家で見たドラマの多くは記号化された登場人物が記号通りの動きをし、記号通りのセリフを発していた。

 

そう言った意味ではNHKドラマが多くの年齢層に受けるドラマというのは良くも悪くもこのわかりやすさが要因となっているのかなと思った。

 

先の読めない展開を期待したり登場人物の気持ちを考えて楽しむのではなく、ある登場人物は予想通りにヒロインと結ばれて欲しいし、ある登場人物は予想通りに最後は痛い目に遭って欲しいのだろう。

 

オタク向けのアニメというのはNHKドラマなどとは正反対で、基本的にはコアな層向けのものだと思っているのだが、記号化された登場人物(ツンデレとかブラコン妹とか)が記号通りのセリフを発するという点では似ているような気がする。

 

オタク向けのアニメの男女比を1:1ぐらいにしてマニアックな要素を除いて実写化したら結構おじさんおばさん子供にも受けるものになるんじゃないかな。

 

まあ、オタクと言っても物凄くいろんな種類がいるので一概に言えないのは分かっているのだが、僕が想定しているのは萌え要素が強く、どちらかというとバトルとかホラーとかは絡まないものである。

 

NHKドラマ的なお決まりが好きな人もザ・アメリカ映画的なお決まりが好きな人もいるだろう。

 

んー、僕は結構いろんな国の映画を見てしまったので大体の映画を見ても無意識にパターン化してしまっている気がするので本当に今まで見てないようなやつを見てみたいなあと思う今日この頃。

考えることも努力じゃない?

これも結構前の記事になるがそんなことは気にしない。

 

以下はテキサスレンジャーズに所属するダルビッシュ選手の言葉だ。

 

 全国高校野球選手権大会が第100回を迎える2018年が始まった。大リーグでプレーするダルビッシュ有(ゆう)投手(31)が、高校野球への思いを語った。球児へ贈るメッセージは、「頑張らない!」。大リーグを代表する右腕が、その言葉に込めた真意とは。

頑張り過ぎなくていいんです、日本の球児は。何百球の投げ込みとか、何千本の素振りとか、そんなのを頑張っちゃダメなんです。

 母校の東北高では、いわゆる強豪校の練習をみんながしていたけど、僕はしなかった。納得がいかない練習は絶対にしたくないと強く思っていたので、ウサギ跳びとかそういう類いの練習は一切しなかった。主将になるまで、ほぼ全体練習にも参加しませんでした。

 小さい頃から日本人じゃないような考え方を持っていて、そういうのが当たり前というみんなの常識が、僕の中では常識ではなかった。日本ハム入団1年目のキャンプで、2軍監督と面談した時も、「君は何が一番大事なんだ」と聞かれ、「納得がいかない練習だけはしたくない」と答えたくらいです。

 以下引用元 

https://www.asahi.com/articles/ASKDT63HMKDTPTQP007.html

 

 

僕は普段スポーツをほとんど見ないのでスポーツそのものもスポーツ選手のインタビュー記事などもほとんど見ない。

 

だがプロ野球選手にはダルビッシュ選手のような考えを持った人が少ない気がするので、こういった記事が話題になるとついつい目を通したくなり、気づいたらそれに対するネットの反応も見てしまっている。

 

恐らく20年以上前だったら

 

「汗水垂らしてがむしゃらにやるのが一番だ」

 

みたいな意見が過半数を占めていたかもしれない。

 

流石に2018年ともあってそういった意見は少なくともネット上では稀なようには思えるが、

 

「それはダルビッシュが才能があるから言えることだ」

 

みたいな意見が結構多いことが少し残念に思えた。

 

これって、例えば寿司職人の人が

 

「毎日何千貫も握ってればいい寿司職人になれると思ったら大間違いだよ。ネタもシャリもその時によって違う。お客さんの好みも違う。考えながら握らないといけないよ。」

 

みたいなこと言ってたら結構みんな納得してたんじゃないかなーと思ってる。

 

というのもつまり、料理というのは奥が深いもので、数をこなせば上手になれるものではないと何となくみんな気づいているからではないだろうか。

 

(申し訳ないけど)毎日料理を作ってくれるお母さんの全てが全て料理が上手とは限らないことをみんなが知っているだろうから。

 

僕の母も決して料理が下手とは思わないが、自分で初めて作った豚バラチャーハンを食べた時に意外と自分で作ったものも母の料理と比べて遜色がない事に気づいちゃったのだ。

 

一方、スポーツに関していうと未だに努力至上主義の空気は残っている気がする。

 

ましてやこの記事に関していうとダルビッシュ選手のような孤高の存在っぽいキャラクターも反発(?)に拍車をかけているように思う。

 

僕はダルビッシュ選手のやり方が万人にとって良いやり方だとは言わないが、少なくともこういう考え方もあるのかなと心に留めておいておいていいのではないかなと思う。

 

泥臭い努力をして成功した人の声には多くの人が耳を傾けるが、革新的な努力をして成功した人の声に耳を傾ける人は前者と比べて大分減るように思える(そしてその内の何割かは意識高い系といったジャンルにカテゴライズされる人たちかな)。

 

誰かの話を盲信したくはないが、耳に入れようともせずに突っぱねることもしたくない。

 

色々な人の意見を耳に入れて、色々試して良かったものを続ければいいし、それでマンネリ化してきたらまた別の方法を試せばいいんじゃなかろうか。

 

野球に限らず。

 

僕の場合、英語の勉強をするにあたって毎日というほど今のやり方でいいのかどうか考えている(た)。

 

レベルが上がるにつれてやり方を変えた方が効率がいいと思うからというのと、同じことばかりやると飽きてきてしまうからだ。

 

飽きてしまうとまず楽しくないし、勉強が作業化してしまってレベルも停滞しがちになる。

 

もし僕が泥臭く何も考えずにずっと単語帳に噛り付いていたらもっとレベルが上がったのだろうか?

 

それはわからない。

 

わからないのならより楽しそうな方法でやってみるまでだ。

 

ちなみに最近はボラットというコメディ映画で下品なセリフを楽しみながら覚えている。

 

体感ではあるが僕の外国人の友達で日本語の能力の高い人は一生懸命勉強する人よりもアニメや漫画なんかを使って楽しんで勉強している人が多い気がする。

 

参考までに。

今更って感じだけど、去年の大晦日の笑ってはいけないの黒塗りメイク問題について

多くの人が黒人差別の象徴として引き合いに出している「ミンストレルショー」なんだが、これって一体どれだけの日本人が知っているのだろうか。

 

なんか、こうやって他国の悲しい歴史を持ち出してきて他国の表現を規制しようとする動きは際限がなくなってしまう気がするのだ。

 

例えば日本ではテブいじりやハゲいじりは、度を過ぎなければ許容される風潮があるように思うが、例えばそれらを見たどこかの国の人が、「私の国では長い間ハゲ差別があった。それを彷彿とさせるからハゲいじりはやめてくれ。」と言ってきたらどうだろう。

 

どこかの国では猫舌に関する悲しい歴史があるかもしれない。

 

なんだったらフサフサ差別がある国もあるかもしれない。

 

極論なのは分かっているが、僕が言いたいのはつまりどんなに配慮したって誰かしらは不快に思うわけだし、線引きはどうするの?ってこと。

 

漫才だってボケの人は謂わば頭の悪い人を演じているわけで、知的能力の低い人を揶揄していると捉える人も居るだろう

 

そういったものまでをも禁止するとなると世の中から笑いというものは消えてしまうと言っても過言ではないのではないかと僕は思っている。

 

あと、他国ではこうだから日本もそれに合わせようとか、そっちのが国際基準だよって盲信するのはなんか怖いなあとは思う。

 

例えば中東などイスラム教の影響が強い国では女性と男性で持てる権利に違いがある国が少なくないんじゃなかろうか(あまり詳しいことは知らないので偉そうには言えないが)。

 

そういった国々からすれば露出の多い女性の存在自体があり得ないだろうし、じゃあそういった国々から指摘を受けたら露出の多い女性をテレビに出しちゃいけないのかってなってしまう。

 

なんかそっちの方が今の日本では差別的と感じないか?

 

逆にアフリカやアマゾンなんかでは女性が胸を隠すのは非常識なこととされている民族もあるかもしれない。

 

どこかの基準に合わせたら恐らく他のどこかの基準からは外れてしまう。

 

国際基準なんていう絶対的な基準なんて無いのだろう。

 

そして多くの場合、国際基準として挙げられる基準というのは一部の欧米の先進国の基準で、しかも欧米も全てが全て考え方が一致しているわけでは無いということを踏まえておいた方がいいと思う。

 

アメリカでは椅子に座って人と話す際、足を組むのがマナーが良いとされる(足を組むということは私は立ち上がりません、つまりこのままずっとあなたの話を聞きますよというサインでもあると聞いたことがある。)そうだが、日本ではむしろ逆のような気がする。

 

そしてアメリカのニュースなんかでその光景を見たことがある人は少なくないと思うが、それをいちいちCNNに苦情を入れる人なんて聞いたことないし、入れたところでその人は文化の違いを受け入れられない人だと冷笑されるのがオチだと思う。

 

そしてもちろん笑いというのもその国その国で形が違うものなのだ。

 

だから、多分この問題に解決策はない。

 

そして一つ思うのは、表現の規制に心血を注ぐことで深刻な差別ってなくなるの?ってこと。

 

とはいえ僕も表現規制に全く反対かというとそういうわけではなく、おおっぴらに何でもかんでもネタにしていくとそれはそれで望まれないイジリ、強いてはイジメが生まれる可能性もあるし、実際僕にとっても笑えない(結果的に面白くないというわけでなく、負の意識が透けて見える)ものもあるので表現というものはある程度のルールは要るのかなとは思っている。

 

結局、一人一人で考えましょうね〜としか言えないよねって話。

 

 

 

 

じゃあ最後に僕なりの要点をまとめると、

 

・必ずしも他国の文化に合わせることが正しいとは限らないのではということ

・統一した基準というものは無いのではなかろうかということ

・表現の規制で差別がなくなるのかということ

・具体的にどこら辺までルールがあるといいのかということ

 

といったところだろうか。

 

 

漠然としてるし、思っていたより実際に書いてみると書きたいこと書けていないなと思う。

 

うーん、頭の中でキリンを完璧にイメージ出来ているつもりだが、実際に描くとなると上手く描けないように、頭の中でちゃんとこの問題に対してうまい感じでの意見を持っているつもりでもちゃんと文字に出来ないということは漠然としか考えれていないということなのかな。